オリジナリティー
- 2015/12/28
- 15:24
先日、興味深い記事を読みました。
そこには、「日本の文化力が、なぜ世界中で図抜けているか」 と言うことについて書かれていました。
下記は、その記事の中からの抜粋。
日本文明を 「一国で成立する、主観的な自己認識を持つ孤立文明」 と説明がされていました。
日本が二千年来の母語を維持継続できた理由。
日本の文化力が、なぜ世界中で図抜けているかと問われれば、
「人類史を通じて、日本語が唯一、植民化されなかった言語であり、そこに独自の客観的世界観が凝縮されているから」 と答えられるでしょう。
いま世界で一番普及している言語は英語ですが、
それは七つの海を支配した大英帝国が植民地化してきた地域が60数カ国・地域にも及んだからです。
同様に、スペイン語やポルトガル語が中南米を席巻し、英語同様、フランス語も植民地化されたアジア、アフリカへ、
そしてロシア語もソ連体制下の東欧や中央アジアに広がりました。
しかしながらわが日本だけは、中世は元寇の役をしのぎ、
幕末の英(朝廷側)と仏(幕府側)両国の植民地化狙いを退け、
内輪揉めは自らの手で “維新” したことで、中国語・モンゴル語や英仏語による置き換えを逃れてきました。
戦後のアメリカ占領下でも、ヘボン式ローマ字化を通じた英語への誘導にも乗せられず、
(換言すれば、識字率の高さと日本語教養力の高度成熟度が壁となって)
文化大国としての日本が二千年来の母語を維持継続できたわけです。
上記の内容から 今の日本を観てみましょう。
よく 「日本は真似をするのが上手い」 とも云われてきました。
しかし、
10年、20年という時間軸で観てみれば、真似をしている様に捉えられることも。
100年、200年の単位で観てみれば、吸収して取り入れて来た とも捉えられるでしょう。
現に、今の日本国内では、三味線や琴の音を聴くことの方が 珍しくもなっています。
しかし、100年前の日本では、それが当たり前であった時代があります。
現在を見渡してみれば、これだけ普及したヴァイオリンなどの弦楽器や他の洋楽器。
それらもクラシック音楽の伝来とともに 100%輸入の形から始まった音楽と楽器です。
その関係で今までは、特別扱いの様な音楽としてのクラシック音楽教育も、現在では一般化させたすそ野の広がりがあります。
これも、日本が年月を掛けて取り入れてきた 日本の文化吸収力としての一端ともうかがえます。
ヴァイオリンなどが、これだけ短期間の内に 日本国内に広がった背景には、
やはり、人の心を引き付ける音楽としての奥深い魅力が 在ったからだと思います。
その音楽の持つ奥深さには、演奏する側からの奥深さと。
製作や扱う側からの楽器に対する奥深さが、共にある様に思います。
さて、日本には 多様性が必要だ。
っと 最近では耳にすることも多いですが。
日本という国が 今日まで歩んできた 日本の時間軸を用いてみるならば。
多様性を持って対応することに対しての 計る時間の捉え方の違いなのかも知れません。
その違いから 日本は閉鎖的だと思われても仕方もなさそうです。
しかし、日本的な考え方や習慣があるからこそ、日本的な日本人の姿があるのだとすれば。
自分達の時間軸を忘れて、「何処どこの国ではこうだから」 っという比べ方ではなく。
自分としてのオリジナリティーを持って、接することが出来るのも
日本に必要な 多様性でもある様に思います。
楽器製作についても、己のオリジナリティーを無には語れません。
何処で誰に教わろうとも、それを自己表現できて 自分の作品とする。
日本の弦楽器愛好家の方々も、そのくらいの認識レベルになっている様に思います。
日本の音で奏でる 日本が育んだ日本流のクラシック音楽があっても 良いではありませんか。
外圧的な 「これが本流だ」 っという様な、音楽の時代でもなさそうです。
他の国の様に音楽がしたければ、その国に行って音楽をすることも出来るのですから。
それらのことが、個人でも行動のできる時代でもあります。
これからの変わりゆく日本と 同時進行が出来ることも、
その時代に生きる人だけに限られた 人の一生の中の時間。
日本や日本人としてのオリジナリティー、まんざらでも無さそうです。
さて、その様な希望的な願いも込めまして、
来年も 皆様にとりまして 良い年でありますように。
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